

めっきり書けなくなりました、 @SHARP_JP です。読めるけど書けない言葉がある。ちょっと難しい漢字になると、ギリ読めるがまったく書けない。スマホによって手書きがほぼ絶滅した生活になり、書けない漢字がどんどん増えている。そもそも読める漢字は、取り急ぎ読めるから頭の中では「知っている漢字」に収まっているけど、いざ書こうとする段になってはじめて、文字の像がうまく結ばないことに気づく。
だから書けないことに自分でびっくりしてしまう。書けない漢字は愕然の量が多いのだ。そういう時は、まあみんなそんなもんだろうと思って、危機感を保留にする。読めれば困らない時代であることは確かだけれど、われわれは「書けない」の次に、案外すぐ「読めない」が訪れそうで、ちょっと怖い。
一方で、口にはしないけど書ける言葉というのもある。私はついこの前、自然に「すわ」という言葉を書いてツイートして、自分でも驚いてしまった。いくら緊急な場面に遭遇しようが、私は一度も「すわ」と口にしたことはない。本来「すわ」という言葉が表すような状況は、自意識が介在する余裕もない切迫度だろうから、ギャーなりワーなりの音が口から出るはずだ。いくら交換する時間が圧縮された現代のテキストコミュニケーションといえど、やっぱり書くという行為にはまだ余裕があるのだろう。矛盾するようだが、余裕あってこその「すわ」なのだ。
それなりに余裕を持って言葉を選べる状況下で「すわ」と書いた私は、どうやら以前からそれを使いたかったのだろう。知っているけど使ったことがない言葉。口にしないけど書けそうな言葉。他人は使わないけど私は使う言葉。そういう矮小なユニークさをはらんだ言葉を、私は水面下でストックしているのだ。その底にあるのは、あわよくば賢げに見られたいという、自意識である。とりわけ書くという、考える余裕がある行為に、私の小賢しい自意識はむくむくと頭をもたげる。頭をもたげるなんて言葉、書くことはあっても、まったく口にしないよね。
いかんせん(まるいがんも 著)
小賢しい自意識は、書く時にだけ現れるわけではない。会話中だって、いまから発する言葉にどういう意図を乗せ、同時に相手にどう受け取られるかを想像しつつ、私たちはリアルタイムに言葉を選んでいる。そこへさらに声のトーン、身振り手振りや表情からの意味の支援も行っているから、私たちは会話中こそ、高速の自意識を振りかざしているのかもしれない。
程度の差はあれ、私たちが選択する言葉にはすべて、その言葉が持つ語義とは別の、なんらかの意味や意図が含まれている。その意味や意図を自意識や無意識と言ってしまうとかんたんだけど、そこには他者との関係、自分の価値観、美意識、コンプレックスといった、覗けば覗くほど複雑なドロドロがあるのだろう。そして私のドロドロにはおしなべて、ちょっと賢く見られたいという欲望が横たわっているのだと思う。
それはこのマンガのふたりとも共通する。「いかんせん」ってかっこよく言いたい。「いかんせん」をさりげなく使って賢げに見られたい。そういう形の自意識があることは、私にもよくわかる。そして私にとって、それは「ことほどさように」である。私は隙あらば「ことほどさように」と言いたい。ここぞとばかりに「ことほどさように」と使って、クレバーに見られたい。しかし今のところ、そのチャンスはまだない。ことほどさように、小賢しい自意識はめんどうなのである。

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