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シャープさんさんの作品:難儀な文章

書くのが仕事、@SHARP_JP です。現代人はみな、ひたすら文章を書いている。手紙だろうがメールだろうがLINEだろうが、長さの違いはあれども文章だ。ツイッターしかり、インスタのコメントしかり。チャットやSlackだって、会話感覚であっても、そこに書きつけられるのは紛れもない文章である。世間では国語力とか作文能力の低下が憂慮されたりするが、そんなことお構いなしに私たちは日々文章を量産している。


どこでなにを書こうと私たちは自由だ。だれになにを書くかも自由だ。ただし他者にどう読まれるかだけは、自由ではいられない。その文章を読んでどう感じたり思ったりするかは、あいにく読んだ側の自由だからだ。


いまや書く自分の自由に、読む他人の自由をどれだけ織り込むかが、とりわけSNSにおける文章の要なのかもしれない。そしてその自由ふたつの按配を少し見誤るだけで、容易に批判が巻き起こるのはみなさんも知るところだろう。現代の文章はなかなか難儀な存在になってしまった。


もちろん私信はいいのだ。ただひとりを相手に、自分の文章が無事に受信されさえすればいい。おそらく両者の間には信頼関係があるし、たいていの場合、自分の自由と相手の自由に齟齬はないはずだから。


それから要件のある文章もまた難儀さとは無縁であろう。イベントを告知する文章なら日時と場所の伝達が肝心だし、自分の意見を聞いてほしいならそれがすんなり伝わる文章になることのみに心を砕けばよい。とにかく要件があれば、書く側も読む側も自由度は減るけど、文章は安定する。


だから仕事で書く文章はさほど難儀ではない。仕事の文章であれば必ず、伝えなければいけない要件があるはずで、それが過不足なく連絡できさえすれば、私はなんら問題ないと思っている。たまにビジネスマナーという別の難儀を持ち込む人はいるけど。


問題は、徒然なるままに書く文章なのだ。自分に向けて書いているのか、他人に向けて書いているのか、その宛先すら曖昧模糊としたまま、周囲の事象や自分の心象を綴るタイプの文章が世の中にはある。この文章もそうとうな割合で徒然なるままだし、多くのツイートやブログなどもそうだろう。そこでは書く私が同時に読む私となり、ふたつの自由が溶けあってしまう。それは文章の持つ魅力のひとつでもあるのだけれど、とはいえ書かれた文章は公開された瞬間から他者の目に触れようとする。だれにともなく書く文章はネットを漂い、いつかどこかでだれかに読まれる。だからこそ私たちは徒然と書くのだが、同時に徒然たる文章が期せずした軋轢を生むこともあるのだ。現代の文章の難儀さは、そのあたりにあるのではないか。



思い出はいつもしょっぱい(サッコウ 著)


徒然なる文章の悲劇は、小学生の夏休みの宿題にさえ見てとれる。夏休み最後の夜に日記を忘れていたことを思い出し(その時点でじゅうぶん偉い子だけど)寝床であわてて記憶を書き付けようとする。夏休みの記憶なんてぼんやりしたものだから、自身で辿るうちに思考があちこちに飛んでいくのも無理はない。


いつしか記憶ではなく思考をトレースするように書かれた日記は、まさに徒然なる文章だろう。だから徒然と心象を綴る彼女が、いつしか日記は提出されるもの、つまり他人に読まれることを失念してしまうのもまた、無理もない。そして悲劇が待っていたのだ。


ポエムが公衆の面前で読み上げられるのはさぞ恥ずかしいことだろう。むき出しのセンチメンタルに、他人のセンチメンタルが盛られる地獄。もちろん読む側の自由は存在する。先生が情感たっぷりに朗読する自由はあるけど、そもそもポエムは、自分のセンチメンタルを大盛りにして生まれる文章だ。おそらく彼女のポエムだって、徒然なるまま書くうちに、他人の目なんて意識していなかっただろう。似た経験に思い当たる私は、マンガを描くことで作者の恥ずかしさが成仏されていることを切に願う。

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2021/8/19 コミチ オリジナル
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