

大人になると、行きたくない場所へ、行かなくてもよいと思っていました。行くか、行かないかは、自分で選べるものだと思っていたのです。なぜなら大人は背が高いから。行かない方の世界にも、広い場所があることを見渡せるから。いまはまだ大人でないあなたは、いずれ自分も行くか行かないかを選べると思っていることでしょう。
なのに案外、大人になっても行くか行かないかは選べなかったのです。正確に言うと、選ばせてもらえなかった。大人は、行くか行かないかを選択するまえに、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗せられたのです。月曜あさのツイッターといったら、行くか行かないかを選べない、大人の呪詛であふれたものでした。
そうか大人になっても行くか行かないかは選べなかったのだと、絶望を通り越し、行くか行かないかについて、考えるか考えないかすら考えなくなったころ、とつぜん大人は、行かないという選択ができるようになりました。見えないウイルスのせいです。来いと言われていた場所からなかば強制的に、来るなと言われたのです。行くか行かないか選べなかった大人には、それは朗報に思えました。
行くか行かないかを選べなかった大人は、家で仕事をするようになりました。結果的に多くの大人が、なんだ行かなくてもよかったんだと思いました。行かない方の世界に広がっていたのは狭くて汚い自分の部屋だったけど、行かなくてもだいじょうぶだったという経験は、大人を少し楽にしました。あなたと同じく、最悪なことばかりな数年だったけど、それは心底よかったなと思えることでした。
第4話 あの日の女の子へ(オムスビ 著)
いまはちょうど8月の末。この文章が公開されるのは9月の初め。もうずっと前から指摘されているように、学校に行くのがしんどい人にとって、学校に行くか行かないかを選べないことに、ひとりで絶望してしまう季節です。そしてその絶望の季節がくるたびに、大人になっても行くか行かないかを選べなかった大人は、行かなくてもいいよ、と声をかけることに躊躇してきました。躊躇する大人は、行く絶望の前に、行く行かないを選べない絶望があることを知っているからです。行かなくてもいいよ、は気軽に言える言葉ではない。そう思ってきました。
でも今年は少し、ちがいます。行かなくてもだいじょうぶ、をたくさんの大人が経験しました。コロナの日常はあいかわらず大変で、でも社会はぬるりと元に戻ろうとしています。どうやら大人も行くか行かないかはあいかわらず選べなさそうだけど、行かなくてもだいじょうぶなことを知る大人は着実に増えました。だからいま、学校へ行くのがしんどい人は知っておいてください。あなたが思うよりずっと、あなたの周りには、行かなくてもだいじょうぶだと言える人がいることを。
あなたを取り巻く世界には、行かなくてもだいじょうぶなことが、たくさんあるのです。

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