人間の表現方法のひとつであり、物語る手段であり、世代を超えて享受するものとして、マンガは音楽と同じような存在だろう。万人にとってありふれた娯楽であるが、一部の人にとっては沼となり、ある作品との出会いが人生を変えてしまう、劇薬のような存在だ。
ところでマンガはその楽しまれ方、読まれ方について、おどろくほどの変遷を遂げてきた。雑誌、単行本、電子書籍と、モノからデータへの変遷もあれば、紙、パソコン、スマホと、マンガを読む道具の変遷も私たちは経験している。
そんなダイナミックな変遷を繰り返しながらも、連綿と表現が続き、作品が無数に発表されているのもまた、マンガと音楽は境遇が似ているのかもしれない。レコードやCDを経て、ウォークマンからMD、MP3プレーヤーを経て、気がついたら私もストリーミングやサブスクで音楽を享受している。
そういう変遷の中でも「スマホでマンガを読む」は現在進行形の変化だろう。「スマホでマンガ」は、単にマンガを読むツールが変化したという話ではない。あるいは、人間が手のひらの中で小さく読むのに慣れる、という話でもない。いまや縦長のスマホ画面をスクロールしながら読むために、マンガの表現や構造が変わろうとしているのだ。
つまりマンガを読む側も描く側も同時に変化するという、なかなか劇的な最中にわたしたちはいる。そして現時点で、その変化に最適化したように見える表現が「縦スク」と呼ばれるマンガの構造だと、私は認識している。
と、ここまで書いておきながら、私はまだ縦スクに馴染んではいない。むしろマンガは紙の本で読むのがいちばんと思うオールドタイプだ。だからこそ私は、いま縦スクを体験する感じを記録しようと思ったのだ。幸いにして、ここコミチは縦スクマンガの最前線。従来のコマ割りで描かれたマンガでさえ、自動で縦スクに変換する技術も開発している。
つまりマンガ好きにとって、コミチは「スマホでマンガ」を読むための最先端の本屋だといえば、ちょっと持ち上げすぎだろうか。前置きが長くなった。いま私は、コミチの縦スクショップのページで、どれを読もうか逡巡している。ずらずらと無料公開の作品が並ぶからだ。
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『White Tiger 〜白虎隊西部開拓譚〜』を読みはじめたのは、他愛もない理由だった。サムネイルがゾンビっぽかったから。ただそれだけ。私はゾンビが好きなのだ。
第1話を開き、スマホで下へ下へ読んでいくとおどろいた。ゾンビじゃなかったからだ。それどころか日本が舞台の話ですらなかった。ゾンビらしきサムネイルとタイトルの白虎隊の文字が視界に入っていた私は、すっかり白虎隊ゆかりの東北か北海道を舞台にした、幕末ゾンビ物なる先入観を育て上げていた。そして読み進めた私は、自身のチープな想像力をひどく恥じ入るほど、魅力的な物語がそこで展開されていた。
図らずも生き残ってしまった白虎隊の隊員が、西部劇でおなじみの開拓時代のアメリカ大陸へ上陸する。しかもそれはどうやら史実なようで、言われてみれば幕末は、ちょうど西部開拓時代と重なるのだ。そう考えると、あなたもわくわくしてこないだろうか。私は何度も縦スクロールする親指を止め、日本とアメリカ、その歴史の重なりにクラクラしてしまった。
物語はまず、アメリカに上陸するまでが描かれる。白虎隊が守ろうとして、儚くも消滅してしまった会津藩。その生き残りが、アメリカ行きの船に乗り込む。侍から大工、女性、農民などの混在した面々だったが、黒船に乗船した瞬間、そこはもう日本ではなくなる。船上では日本人こそが異人。同時に日本で人を縛り付けていた士農工商の身分さえ無効化される。つまり主人公たちはアメリカに上陸する前から、フロンティアの開拓民となり、己の才覚とスキルで生きていかねばならないのだ。
もちろんここから、アメリカ上陸後の物語が描かれていく。いまから私も読むところだ。かつて日本とアメリカの歴史が接続され、日本人が異人としてアメリカのフロンティアで生活が紡がれた事実を、われわれは画面をスクロールしながら追体験できるのだろう。すっかり私は、夢中だ。ゾンビじゃなかったけど。
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