夏が終わりそうです。夏休みは終わりました。@SHARP_JPです。8月の終わりになると毎年、ふたたび学校という日常へ突入することに困難を抱えた少年少女へ、無理するな(あるいは無理しろ)というメッセージが世間にあふれる。
自分ではどうすることもできない悪意の向けられる場所が、この世界には確かにあります。自分ではどうすることもできないままに自分を折られるくらいなら、その場所から退出すればいいと、私は思う方です。だけど一方で、自分ではどうすることもできない悪意が向けられる場所は、未来永劫続かないこともまた、私は知っています。
人はなぜか自分の不安を隠すためにとりわけ残虐になる時期があって、たまたまそこに居合わせただれかが、とばっちりを食うことがある。事後的に見ればそれは夕立にあうようなものだから、どこかの軒先で雨さえしのげればいいものを、ただひたすら夕立から遠く離れようとするあまり、元いた場所を見失ってしまうのはあまりに不憫だ。残虐さに晒されやすい、あの特有の時期だけ回避すればいいものが、結果その子の未来を閉じてしまうなんてやりきれないと、私は思う。
そしてさらに、逃げろ(あるいは逃げるな)というメッセージの発信が毎年のように繰り返され、もはや夏の終わりのありふれた憂鬱のように見えてくる現実に、私は絶望を重ねてしまう。
ブルーモーメント(michi 著)
だから作者michiさんの、おそらく実体験なのだと思うのですが、こういう作品はとても心に痛い。いまこの季節に、同じ思いでいるだれかを想像しながら読むと、とりわけ痛い。
「あたりまえをうまくできない」主人公は、その理由さえ見つからず、学校になじめない。学校は他者との比較を突きつけてくる小さな社会とも言えるわけで、「うまくできなさ」を抱える人にとっては、そこにいること自体がそうとうの緊張となりうる。
「あたりまえをうまくできない」理由が見つからないのは、思春期の、自分の輪郭がはっきりしない時期なら当然のことだし、それでもなお自分を見つめようとする主人公は、むしろ周囲より成熟に向かっているのではないか、と私なら考える。だけど、比較と横並びを同時に要求する学校という社会では、その内向きの思索がますますの乖離を呼ぶのだろう。そして当人は、まるで落伍者かのような思いを深めてしまう。
夏休みはそういう小さな社会から合法的に離脱できる期間ではあるのだが、それは終わりの始まりでもあって、復帰への緊張、仕切り直しのプレッシャーを増幅させる。比較と横並びを同時に要求する社会は堅牢で過酷で、やがて主人公は学校からの離脱と孤独を選ぶのだ。
だがこの作品は絶望だけではない。私は絶望の先の、小さな希望を見る。主人公は孤独と不安な夜の終わりに、青い朝焼けに遭遇する。そして青い朝焼けを、美しいと感じる。
自然はいつだって、人間の利害からはずれたところにある。われわれの尺度とは別の次元の存在だ。だからそこに「美しい」を発見できるのは、学校という社会から一度、離れた者だけだ。朝焼けを美しいと感じた彼女は、おそらくその時、他人との比較という物差しから自由になった。孤独と不安を引き換えに、個別に「美しい」を発見した。それは社会が規定する「美しさ」から、個人が見出す「美しい」へとジャンプした瞬間ではなかったか。
私はその着地点に、彼女が彼女の中に発見した、彼女の居場所を見るようで、彼女の未来が再開されたと感じたのです。自分の居場所は自分の中にある。辛い時は自分の中に居場所を見出し、また何度でもはじめればいいのだ。
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