医療従事者。ここ一年でわれわれが急に目にするようになった言葉だろう。医者や看護師といった言葉には馴染み深かった私たちも、医療従事者という語にはこれまで面識があまりなかったはずだ。理由は明らかだろう。ウイルスだ。新型と名付けられたウイルスが私たちの社会を覆い、医療とわれわれの距離がぐっと近づいた。
距離が近づいたと言っても、医療とわれわれの親密度が増したわけではない。ましてやお互いの理解が増したわけでもない。むしろ自分がいつでもそちら側の世話になるかもしれないというリアリティと、実際にそちら側に行く人が激増することで、医療の環境が過酷を極めていると伝えられたから、医療とわれわれは切実さでもって距離が近づいたのだ。そして図らずも、医療という現場には医師や看護師だけでなく、患者を運ぶ人や施設を整備する人、あるいは足跡を追う人や事務を担う人など、自らの危険を顧みずに、過酷な仕事に立ち向かう人がいることをあぶり出した。
それは、かつて私たちがなんとなく想像していたよりずっと膨大な人たちだ。医療従事者という言葉は、われわれの社会を支えてくれている存在と、ひとたび世界が不安定に陥ると、ある特定の環境に負担が押し寄せることを学ばせた。同時に、不安に駆られた人はその不安を代償するように、医療従事者へいわれなき差別や中傷を行う場合があることを知る。悲しくて、愚かしいことだが。
ただかろうじて、その愚かしさにも理解が及ぶところがある。たぶん、人は不安がいきすぎると、自分をとりまく周囲を群の構成として見てしまうのだ。群に見るとはつまり、想像力が雑になることを意味する。ウイルスという目に見えない、ミクロな存在に起因する不安は、よけいにマクロな方へと思考を向けることで、それを代償するのだろう。
だからそういう時はやはり、視線を個人に立ち返らせるべきだ。群をひとりひとりとして見つめ直す。視野狭窄とはなにも小さな視点を言うのではない。想像力の欠如を言うのだと、私は思う。医療従事者をもう一度、個人として見つめ直すこと。それにはSNSがある。そこでは医療従事者、それぞれ個人の声がいたることろで語られている。あるいは、こしのりょうさんのように、医療従事者を個人の物語として描き留めようとする漫画家がいる。
やっぱりナースの仕事きらいじゃないし、ときどきはなうた歌うし。/こしのりょう
ここで綴られるのは、最初から最後まで、完全に個人のエピソードだ。不安に駆られたら、小さな物語を読むといい。私はその力をけっこう信じている。もしあなたの周りで、不安を医療従事者への誹謗にすり替えそうな人がいれば、このマンガをすすめてほしい。必ず、医療とわれわれの距離が、前向きに反転するだろうから。
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