

自室からこんにちは、@SHARP_JPです。毎年、なぜか卒論に協力している。ここ数年、秋になるときまって、私が運営している企業公式ツイッターをテーマに卒論を書きたいと、許可と取材の依頼がやってくるのだ。ツイッターのリプライや人伝のメールなど、連絡がくるルートはさまざまだが、私は来た者を拒まない。ふたつ返事で協力を申し出る。
たいていは経済学部とか経営学部の学生で、私の運営するツイッターアカウントがブランドイメージの形成にどう影響するかだとか、企業の広告やマーケティング活動のどこに位置付けられるかだとか、企業と消費者のコミュニケーションをどのようにシフトさせたかだとか、テーマはどれもこれも、分析される私の方が「すみませんでした」とひれ伏すほどに、理路整然としたものだ。しかも驚くほど丁寧で礼儀正しい手紙が添えられる。
実は私も同じような学部の出身なので、はじめは「どれ、お点前拝見」というような気持ちもあるにはあった。しかしそんなものはじきに霧消してしまった。みんなよく考え、真摯に勉強している。むしろ私の方が「それに比べてお前は」と、学問への自責と後悔の念が湧き上がってくるほどである。
卒論への協力といっても、ほとんどは寄せられた質問に回答する、インタビューを受ける、あるいはなんらかのデータを提供する、といったことだ。私ひとりが運営していることだから、それほど手間がかかるものではない。分析に必要な素材を惜しみなく渡す。ただそれだけである。ただし結論に関わりそうな、手前勝手な意見が伝わることがないよう、そこだけは注意している。
なぜなら私は、ただ手探りでやってきたからだ。いまもそうだし、たぶんこれからもそうだ。たいていの仕事がそうであるように、答えも前例もないことは、ぜったいに後からしか考察できない。事後的にしか考察できないのであれば、私ではない、他者の分析の方が信用に足ると、私は思う。そもそも学問を前にして、当事者があれこれ言うのはお門違いだろう。ここは会議ではない。ヒエラルキー順に能書きを垂れる、会社の会議ではないのだ。
そんなことよりも私がするべきなのは、若者から寄せられた勇気に応えることなのだろう。顔の見えない企業に、得体のしれない大人に、自身が学問の対象とすることを通達する勇気。卒論の依頼に添えられた手紙を読むたび、私は彼ら彼女らのおずおずとした勇気を受信する。その勇気に応答する以外に、私は私にできることを思いつかない。
初持ち込みで出会った編集者さんの話(小柳かおり 著)
私は漫画家を目指したことはない。だけど他のものを志したことはある。だから作者が夢に邁進していた時の根拠なき自信とか、それでいて自分の作品を他者に評価してもらう心細さもうっすらわかる。内から外へ行動を移す時に必要なのは、とにかく勇気だろう。
しかし夢ではなく、仕事をそこそこ長く手探りで続けて来た私はいま、持ち込みを受けた編集者さんの態度こそ、よくわかる気がするのだ。若くて青い、チャレンジャーの勇気を受信した者は、その勇気に応じなければいけない。評価するのではなく、受け止めること。未来の可能性だけは閉じない行為こそ、大人の責務だろう。
あの時がターニングポイントだったとわかるのは、それを振り返ることができてはじめて可能なように、ほんとうの分析や考察など、どうせ未来にしかできないのだ。

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