

沈黙は金、雄弁は銀、呟きはプラチナ、 @SHARP_JP です。なんでもざっくりとふたつに分けるのは品がないとわかっているが、人間の仕事には2つのタイプがある。黙々と進める仕事と、ワイワイとこなす仕事だ。ひたすら手でなにかを作ったり、パソコンになにかを打ち込むのは黙々系の仕事だし、照明や撮影や演者といった役割を分担してなにかを作り上げる、あるいは接客や商談を経てなにかを売るといったのはワイワイ系の仕事だろう。
私は圧倒的に前者だ。打ち合わせが入らなければ、一日声を発しなかったということもザラである。そもそもツイートや執筆といった、仕事内容が他者を介在させる必要のないものだから、仕事中の私はだれかとしゃべるという行為が極端に少ない。ただひたすらノートパソコンか、あるいはスマホに向かって、能面のような顔で黙々となにかを書いている。それが周囲から見た私の姿だ。もしまかり間違って、私の仕事に密着するドキュメンタリー企画があったら、まったくかわり映えのしない、スタティックな絵しか撮れず、ディレクターは早々に匙を投げると思う。
ただし黙々と仕事をしている人が、名実ともに寡黙かというとそうではない。ああでもないしこうでもないしと、本人は自身と対話を繰り返しながらジリジリとアイデアのゴールに向かっていたりするので、頭の中は決して静寂ではない。むしろ5人くらいが頭の中でワイワイやっているかもしれなくて、それを覗いた人はうるさくて仕方がないと感じるかもしれない。
さらに言えば、私はツイッター上でお客さんと会話をしている。黙って会話するのが私の仕事なのだ。会話するように文字を打ち込むのだから、私の体感では、私はずっとワイワイしている。ただしそのワイワイは音声や身振りが伴わない、無音のワイワイだから、私はひたすら寡黙な人に見えるだろう。だが私の頭の中は、けっこううるさい。そして私は、ひとりで黙々ワイワイ進める仕事が、どうも性にあっているようだ。私は静かでうるさいことが、苦にならない。
無人販売所にて(植田大吾 著)
漫画家さんも、きっと似ているんじゃないかと思う。このマンガを読めば、漫画を描くことがいかに寡黙な仕事かがよくわかる。おそらくコロナ禍を経て、アシスタントさんがひとつの場所に集まることも減っただろうから、その黙々さにも拍車がかかったのだろう。なるべく多くの人に読まれ、だれかの心を深く動かすことを願うマンガが、なぜか寡黙なかたちでしか作られない。他者との交流を希求する創作物が孤独なやり方でしか生みだせないことを、黙々とお客さんと会話する私は少しだけわかる。
一方その孤独は、産みの苦しみというだけで片付けられないことも、このマンガは語っている。そうせざるをえない孤独が、自分だけ社会から取り残されたような疎外感や、自分だけ社会となんの接点も持てなくなった不安感へ、容易に接続してしまうのだ。孤独が疎外感や不安感にすりかわった時の苦しさは、ひょっとしたら産後ひとりで育児をした人は切実に理解できるかもしれない。孤独を必要とする仕事や、孤独にならざるをえない人間の営みは確かにある。けれど私たちの人生は、その孤独を歓迎できる時間ばかりではない。
ただここでは、無人の餃子販売所に置かれたお客さんの感想ノートによって、作者が抱えた孤独がいくらか軽くなったエピソードが語られる。だれかの声が音をともなわなくとも文字で聞こえた時、それは黙々としたワイワイとして実感できるのだ。その黙々としたワイワイに、作者が自分のもっとも得意な絵で参加しようとしたのが、じんわりくる。その絵がたぶん、次の人の孤独を癒すのだろう。
願わくば私たちを取り巻くSNSも、だれかの疎外感や不安感を少しだけでも軽くする場所であってほしいと思う。日々黙々と、ワイワイしようよとツイートする私は、けっこう本気でそう願っている。

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