いま自分はどう見えているのだろうかと、ふと考えることがある。もちろん他人からどう見られるかを気にすることは、社会生活をつつがなく送る上で必須の条件だ。まったく他人の目を気にせず行動する人がいれば、それは小人か傍若無人と呼ばれる人だろう。
といいつつ、私はけっこう他人の目を気にしない節がある。服装が暗黙のうちに規定された場所で浮いてしまってもさほど苦痛を感じないし、周囲とちがう行動をとっても、それに気づくのはきまって事後だ。二択で選ぶのはだいたい多数決で負ける方だし、とりあえずビールには同意するがあれば瓶ビールを頼む。空気を読めという空気が読めない自分とのつきあいは長く、どうやらそれをB型っぽいと世間は断ずることも、うすうす知るほどには大人になった。うすうす知ったところでさほど気にしないところもまた、B型の所以だとも。
ただ私が冒頭で述べた、いま自分がどう見えているかは、他人の視線のことではない。人間から見ての話ではないのだ。たとえば、そばにいる犬とか、上空にはばたくカラス、あるいは地球に降り立った宇宙人といった、人ならざるものからいまの私はどう見えているか、それを想像する。妄想と言った方が近いかもしれない。
それは、このマンガで描かれる構造に似ている。人外から見られる私は、いったいどう映るのだろう。人間とは出自も言語も思考もまったくちがう存在から私を眺めると、私の行動はどう解釈されるのか。滑稽なのか複雑なのか。野蛮なのか高尚なのか。本能なのか意志なのか。ただ動き、音を発する物体として、自分をゼロから眺めることができれば、そこになにか純粋な「おもしろさ」と呼べるようなものがあるのではないかと、私はつい考えてしまう。
マンガ「となりのヴァンパイアさん」はタイトルの通り、ヴァンパイアのお話だ。由緒ただしい家柄の吸血鬼3姉妹が、社会勉強のために人間界へやってきて古いアパートで暮らす、その日常が描かれる。吸血鬼3姉妹は3姉妹モノの定番、天然で落ち着いた長女、天真爛漫な次女、醒めたしっかり者の三女と性格は対照的。その姉妹たちが(ヴァンパイだから夜だけ)人間と交流し、人間を観察する様子が語られる。そしてその様子はしばしば、ヴァンパイアの目には滑稽に映る。
当然ながら人間とヴァンパイアは価値観も文化的背景も異なる。捕食関係ですらある、いわば異人だ。だからヴァンパイアと人間の間には、食べ物も服装も趣味も、さまざまな差異があるのだが、このマンガは意外にも「死」について展開していく。なぜならヴァンパイアと人間の最大の差異とは、不老不死と有限の命だからだ。
不死のヴァンパイアは、人間の行動原理を「いつか死ぬから急いで生きる」はずだと読み解く。しかし人間との交流が深まるにつれ、その法則では説明のつかない、無意味な行動に出会っていくのだ。効率性では解釈できない人間の行動や思考に触れ、人間に対する偏見を少しずつ変容させる長姉に並走するのが、この作品を読む喜びだろう。
また不思議な絵のタッチが、最初はギャグ漫画かと思わせつつ、だんだん寓話的に読めてくるのも魅力だ。スマホの縦スクロールで1コマ1コマを分割して読むから、いつしか絵本をめくるような感覚になるせいもあるだろう。
そして物語は、ヴァンパイアと人間の絶対的な差異を裏返していく。「いつまでも死なない」と「いつか死ぬ」はまったく違う生き方だけど、その時間が重なる間だけは正真正銘、同じ生なのだ。そんな結末がマンガのフィナーレに訪れた時、私はふいに泣きそうになった。
スマホを見つめ涙ぐむ私は、横に寝転ぶ犬の目にどう映るのだろうか。
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