

おひとついかがですか、@SHARP_JPです。他人に「買え買え」と促す仕事をしているくせに、私は買い物が苦手だ。衝動買いとは無縁だし、とにかく買うまでに時間がかかる。金がない頃ならまだしも、日常でちょっと欲しくなったものはたいてい買える(もちろん限度はある)今でも、買うか買わないか逡巡してしまうのは、そういう質なのだろう。
ではその時の私は具体的になにを逡巡しているかというと、いまいちはっきりしない。単に浪費を心配しているわけでもないし、買い物の失敗を過度に恐れているわけでもない。1円でも安いタイミングを狙うわけでもなく、どちらかというと「さあ買うか」と自分の腰が上がるのを待っているようなところがある。
買うモノも買う方法も選択肢にあふれた世の中だから、もちろん私だって比較検討はする。ただそんな時でも、心の底には「どれも大差ないし、どれも悪くないにちがいない」と、妙に製造者や作り手への諦念と信頼が入り混じった感情があり、検討に身が入らなかったりする。結局は「買おうかな〜」という気持ちを飼い続けて、私はふだんの生活を送るのだ。
たぶん私は、それを欲しいと思う自分をどこか疑っている。そして私は、それを欲しいと思う理由が必ずしも合理的でないことも知っている。だから私は、それを買って使う自分の姿を自分が想像し続けられるか、慎重に観察する時間が欲しいのだろう。
言い換えれば、買って使う自分は私の未来だ。買って使う自分を想像している限り、自分が未来と接続できていると思えるから、私は買い物の逡巡がけっこう好きなのだ。後ろ向きになりがちな私にとって、今日より明日がマシだと思える、数少ない時間なのかもしれない。
ママじゃない私のための(aiuepo615 著)
ここでも買い物の逡巡が描かれている。しかもその逡巡は、自分の中だけのせめぎあいではない。自分のための買い物をするか、家族のための買い物をするか。より大きな葛藤だ。
この母親の買い物が正しかったのかそうでなかったのかなど、私にはわかるはずもないけれど、ひとしきり悩む彼女の姿を見た私は、それでもうじゅうぶんじゃないか、と感じている。自分と家族の未来を思う逡巡は、それを買う理由(あるいは買わない理由)になるだけではない。その決断に至るまでに残された、膨大な思いやりの道筋こそが、彼女の正しさを静かに語るのだと思う。
私は「買え買え」と促すのが仕事だ。できるだけ多くの人に、できるだけはやく、買うという結果に導こうとする。興味が沸いたらすぐ検索へ。検索したらすぐ売り場へ。迷う暇なく決済へ。広告やマーケティングと呼ばれる仕事は、買うまでの時間と経路を圧縮させる仕組みとも言えるのだろう。
だが私はその仕事の裏で、真逆の思いを抱えている。「買え買え早く買え」と人に促しながら、あなたにはできるだけ豊かな逡巡を経てほしいと願っている。「買え買えゆっくり買え」と思う私は、だからこの仕事が向いてないのだろうなと、最近よく感じる。

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