ここで告白するのもどうかと思うが、私はマンガよりも小説を読むことの方が多い。そのせいかもしれないけど、マンガみたいな小説はたくさんある一方で、小説みたいなマンガにはなかなか巡り会わない。
マンガはもとから大衆芸術であり、音楽でいうポップスなのだから、多くの人を惹きつけることに成功してきた。だから小説もマンガのような成功を目指すべく、マンガに寄せた表現が頻出するのは当たり前。そう乱暴に考えることもできるかもしれない。
しかしいまやマンガだって、大衆を目指さない(と思われる)作品もある。ポップスでない音楽が無数にあるように、必ずしも多くの人の琴線に触れることを意図しないマンガが多様にあることは、だれもが知っていることだ。なのでこの点が、小説みたいなマンガが少ない理由にはならない気がする。
ところでマンガはテキストに比べて格段に視覚情報が多いし、文章では伝えきれないもどかしさが人にマンガを描かせるのだと考えれば、そもそもマンガは小説よりノイジーな表現になるのだろう。マンガの擬音など、まさにノイジーさに寄与する要素だ。
そう考えると、静謐なマンガというのはあまりないのではないか。静謐さを表す擬音(シーンとかスン…とか)すらも持ちあわせるマンガは、静かさを現すことはできても、全体にわたる空気のような「静謐」の印象を読者にもたらすのは案外に難しいのかもしれない。
一方で小説は静かさの独壇場だろう。とりわけ純文学とか私小説といわれる分野では、静謐さが一種のトーンでありマナーのようなところがある。そして私はそういうトンマナがわりと好きで、小説をよく読む理由でもある。
長い前置きになったが、この『文子と早春の煙』には、マンガなのに「静謐さがある」と言いたいのだ。もちろん登場する人物が小説を志す若者3人であること、なおかつ物語はその内のひとりの回想としてモノローグで語られることが、小説のような静謐さを直接的に表しているのは間違いない。
しかし読者に与える「凪のような読書中の静けさ」は、それだけで達成されるわけではないはずだ。作中で回想される記憶は思いのほか生々しいし、描かれる若者の貧乏もそうとうリアルだ。交わされる会話量もけっこう多い。ふつうに考えれば、騒がしいマンガになってもおかしくない。しかしそうはならない。
おそらく作者は、作中の若者みなが目指す小説家のような、重く抑制した表現をマンガで実現させようと目論んでいるのだろう。それは水彩画のような絵のタッチ、擬音を廃したコマ、あるいは読者泣かせな難漢字や文学的教養を問われる古典からの引用といった特長からも感じとられる。
私が小説を読むのは、内向的になる時だ。それは自分の暮らしに静かさを欲している時でもある。ここを読む人の中に同じような方がいるなら、このマンガを手にとってみてほしい。スマホの中に静謐な時間が訪れるはずだ。そしてその静謐さの先に、かつてなにかを犠牲にしてまでなにかにのめり込み、それでいて若さと自己満足をわーわー撒き散らしてきた、静かで騒々しいかつての自分をマンガの中に発見するかもしれない。もしそうなら、それは小説を読む体験とほとんど同じだと思う。
もっと作品を描いてもらえるよう作者を応援しよう!