

実物と乖離があります、 @SHARP_JP です。昔から、自分の容姿を「盛る」という行為がよくわからないでいた。目をぱっちりするとか、肌の様子をきれいにするとか、顔をほっそりさせるとか、とにかく写真の中の自分を見目麗しい方向へいくら補正しようが、実物と会った時にガッカリされるだけじゃないか、と思っていたのだ。損しかないだろうと。
だからどこかのだれかの盛った写真を見ても、ご本人は「ほんとうにそれでいい」と思っているのだろうかと心配したり、盛る風潮自体を「私にはもう理解できなくなった文化」みたいな解釈でやり過ごしていた。あるいはかつて仕事で、撮った写真の中にいるタレントさんを、さまざまなプロの技術と労力で微に入り細に入り修正する作業に立ち会った経験も、盛る行為にどこか忌避感を覚える原因かもしれない。いずれにしろナチュラルに盛る人たちにとっては、大きなお世話ではある。
つい先日、自分の似顔絵をマンガ家さんに描いてもらう機会があった。その似顔絵をSNSのアイコンなどに使用してはどうか、という目的である。以前から私のことを知ってくださっていたマンガ家さんだったので、気を遣われたのだろう。それはもう、実物の私をはるかに凌駕した、美形の中年男性の自画像(女性向け漫画風)に仕上げていただいたのだ。盛りでいうと、250%は盛られた状態である。
その時に私は、ちょっと「盛る気持ち」がわかったような気がした。盛ったっていいじゃないか、と思ったのだ。なぜなら私がこれからの人生で対面するよりも、はるかにたくさんの人が私の似顔絵に接触すると思ったからである。言い換えれば、その似顔絵を通してしか私を知らない人が、おそらく今後たくさん現れるのだ。私と会わない人にとって、私の実物がいつまでも似顔絵であるならば、盛ったっていいじゃないか、と思ってしまったのだ。
そして同時に、盛った自分に対して恥ずかしくない自分でおらねば、と殊勝にも決意してしまった。現実の自分と盛った自分に乖離があるならば、私はその乖離を埋める努力をするべきだし、おそらくそうやって、理想の自分に近づこうとする人もいるのだろう。だから私はようやく、盛る気持ちがわかった(ような気がしている)。
いずれにしろ私は「会う」ということが、人間関係のゴールだとかたくなに思っていたのだ。ゴールは言い過ぎだとしても、仕事であろうがプライベートであろうが、会うことで人間関係は一定の成就を迎えると考えていたのだ。しかしいまや会うことが必ずしも私たちの関係を進めるとは限らない。会わずとも関係が深まることもあれば、対面しないけれどコミュニケーションできる関係性にある人の数こそ、SNSにおけるステータスだともいえる。つまり会うに力点を置かなければ、盛るの効力が発揮されることを知っている人たちが、すでにたくさんいるのだろう。
就活幽霊じゅおん(じゅんた 著)
ただし一方で、会う会わないに関わらず、いまや盛らないと人間関係がはじまらないのであれば、盛る風潮はあまりに残酷だ、とも思うのだ。だれもが見目麗しいと思われるような外見がなければ、私たちの交友関係はおろか、SNSのインプレッションも回転しないのなら、もはやルッキズムは外見の判断だけでなく、人間関係にエントリーすることさえできないという、息苦しさまでをもたらしているのではないか。
このマンガを読めば、同様のことを感じるだろう。この作品は外見の良し悪しが反転した世界でも、結局は外見が重視されてしまう滑稽さが描かれている。さらにいえば、書類選考の段階も想像してみればいい。まず「選ばれるため」に一定の外見が必要とされ、だからだれもが選ばれるために写真の自分を「盛る」必要を感じとってしまうなら、その社会の仕組みに歪さを感じるはずだ。
人間関係にエントリーするために「盛る」が必要ならば、その行為はできれば、そうそうになくなってほしい。私たちがスマホとSNSで人間関係の多様なあり方を育んできたのは、人間関係の過酷さを増やすためではない。人間関係の垣根を、できるだけ低くするためだったはずだから。

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