

検索人生、@SHARP_JPです。賛否両論なんてよく言われる。賛否が分かれる、はニュースの原稿でよくある締めのフレーズだ。私も新製品のお知らせを発信するのが仕事でもあるから、それに対する世間の反応を検索することによって、「賛否の議論を呼んでいる」などと社内報告したりする。そんな時に使う賛否両論のニュアンスにはたいてい、いいと悪いがちょうど半々というよりかは、業界内外で話題を惹き起こしたので万事OK、といった手前味噌なポジティブさが含まれているものだ。
好きの反対は嫌いではなく無視、というのもいまやよく知られた言葉だし、実際にそれは真実が含まれた現代の至言だと私も思う。ただ、広告とか広報といった「ひろく世間に知ってもらうこと」を目的とした仕事では、好きの反対は無視がいささか拡大解釈されて、多少の嫌いには目をつぶってよしと考える傾向がある。話題になりさえすればの先に、炎上商法と呼ばれるような思考停止が存在するのだろう。
しかし現実の問題として、賛否の否は目をつぶってやりすごせるような生易しいものではない。その否が指弾するところのポイントが、まさに自分たちが抱える後ろめたさや弱点と合致するのなら、目を伏せるどころか、ただちに反省すべき件である。
だが賛否の否は、たとえそれが無根拠で間違ったものであったとしても、独特の存在感と圧でもって私たちの視界に迫ってくる。賛否の否の無視できなさは、ドス黒いリプやコメントに遭遇したことがある人はよくわかると思う。
まんがかクエスト(水谷アス 著)
いつのまにか私たちは、賛否の声が可視化される時間を生きることになってしまった。とくに自分でなにかを作ったり、自分の表現を世に問う人にとっては、エゴサという禁断の魔法を容易に手にできる時代だ。ひとたび自分の名前や作品名でエゴサすれば、そこは賛否が渦巻くどころか、賛否の否が際立って目に入る、自己に無慈悲な場所になる。
つまり否は独特な質量を持っているのだろう。賛がふわりふわりと雪のように出会えるとしたら、否はひとつひとつの言葉があなたの身を抉るように直線的に届く。それぞれはまるで、重力の異なる別世界の言葉だ。
賛否は、加速するといっそう違いが浮き彫りになる。賛は数が増えるにつれて言葉のバリエーションが豊かになる一方、否はなぜか似通った言葉に収斂していくのだ。否定は多様さと引き換えに数を増やすことで、だれかの表現や作品を飛び越し、作り手の内面へと到達しようとする。つまりは呪詛化していくのだ。似通った黒い言葉は溶けあって、大きな塊と化す。そうして呪詛の言葉は、速度と質量が掛けあわされて巨大なエネルギーを持つのだろう。
たとえ賛否の数が同じだったとしても、作り手の心の中では、それは両論ではない。賛否両論なんてよく言うけど、当事者にとって賛否を両論として処理することほど難しいことはないのだ。表現する者にとって、とても過酷な時代だと思う。

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