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シャープさんさんの作品:所縁と場所

古都育ち、 @SHARP_JP です。先日いくつか偶然が重なり、実家のほぼ隣といってもいいほど近所の寺へ、仕事で訪問することになった。近所の寺といっても、都の鬼門を担う仏閣だったりして、けっこうな大きさの寺だ。境内には立派な手水舎や池があったり、地蔵が山みたいに連なった祠がある。

 

なぜかその寺の先代住職さんが家電や無線のマニアだったそうで、寺の倉庫に眠っていた、いまとなっては近代的文化遺産と呼べるような、古い家電を寄贈くださるという。そのご厚意に、私も立ち会わせてもらったのだ。

 

別に何十年ぶり、といった訪問ではない。いまだって実家からさほど離れた場所に暮らすわけでもないから、寺の前はたまに通りがかる。なんなら数ヶ月前にも実家へ向かうショートカットとして、境内を通り抜けたくらいだ。ただし今回は仕事として、かつて自分が遊び場としていた場所へ入れること、そしてかつては絶対に入れなかったであろう、寺の中の中へ合法的に足を踏み入れるという、いささか倒錯した個人的背景に、私は思った以上に興奮してしまった。

 

興奮すると、思いがけず子どもの頃の景色が蘇ってくる。うごめく亀をぼうっと眺めていたらいつのまにか夕方になっていた緑色の池。無数のスライムが次々と飛び重なって巨大なスライムになる直前のような、お地蔵さんの山。とつぜん水かけ地蔵の前で寄せられた女の子の好意も、なぜか大声で遊ぶ子どもを叱り飛ばしてくる恐怖の老人の存在も、キラキラした出店でひしめくお祭りの夜も、ありありと思い出してしまった。のちにそれを製造する会社に勤めるとはつゆ知らず、その当時の最新を謳歌していた家電のそばで、私は子どもなりに一生懸命暮らしていたのだ。

 

そういう記憶のレイヤーみたいなもので視界を半透明に覆われながら、あの日の私は仕事をしていた。スマホで写真をとろうとする度に、そのレイヤーも写るのではないかと錯覚しながら、カシャー、カシャーとボタンをタップしていた。もちろんそんなものは写るはずもないけれど、そうやってありありと記憶が引き出される場所がちゃんと残っているのは、悪いことではないなと思ったのだった。

 

ほんとうの福岡県民(オムスビ 著)

 

それにしても自分が生まれ育った場所は、外から見たイメージとはかけ離れていることが多い。私がもし川のそばで育っていたらその川の土手のように、山のそばで育っていたらその山の林のように、私は家のそばにあった寺でのうのうと遊んできた。だから私の知る寺は、京都の観光や歴史の文脈で語られるような寺社仏閣ではない。そして私の知る場所が別の側面を持っていたことを知るのは、決まってそこを離れてからだ。

 

マンガの作者も、同じような感覚だと思う。福岡(というかこの場合は多分に博多のイメージではないか)といえば、で連想されるおなじみの名物を並べられるも、実際にそこで育った人にはさほどピンとこない。ラーメンではなく、うどん。もつ鍋ではなく、うどん。それもやわらかいうどん。そのうどんは、子どもの自分が食べていた姿が重なる、作者にとっての文化的資産だろう。ただし私は、自分の育ったそばの寺がただの遊び場とはちがって、どうも別の文脈を持っていることに、子どもながらに気づいていた節がある。

 

その寺には、新撰組の志士の墓があった。墓には厳しい顔をした胸像が据えてあるから、幼心にもなんだか立派な人がいたらしいことはわかる。しかしわからないのは、その胸像と似ても似つかない、かわいらしく、あるいは美男に描かれた、巨大でキラキラな目をしたお侍さんのイラストが、いつも無数に貼られた掲示板が墓のそばにあったのだ。それを見るたびに私は、ここはお墓だけれど、それとは別の、なんらかの流れでこの寺を好んで訪れる人がいることに感づいていた。

 

もちろんそれが、推しや二次創作と言われる表現であり、とても濃い人たちが集っていたことを知るのは、ずっと後のことである。

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2023/2/23 コミチ オリジナル
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