

なにもかもが終わりません、 @SHARP_JP です。なにかにつけて腰が重い。なにかをはじめるのにひたすら時間がかかる。さいきんでは知覚的に腰が痛いことも増えてきたので、腰の重さにも物理的な拍車がかかるようになった。お察しのとおりこの文章も、残り時間のカウントダウンがはじまってようやく、腰の重みを通り越すことで書きはじめられている。
多くの人が同意してくれそうな雰囲気が恐ろしくもあるが、貧乏暇なしへ着々と歩みを進めるかのように、われわれは年々、せわしなくなっていないだろうか。私の仕事も生活も、なぜかいそがしくなる一方だ。そのいそがしさに、持ち前の腰の重さが尋常ならざる弊害をもたらすようになってきた。とにかく重なるタスクや用事や約束に、すべて腰の重さが影響し合うことで、何から手をつければいいのかわからない状況に陥ってしまう。
もちろん一個ずつやるしかないのはわかっている。一個ずつ終わらせば、その繰り返しの先に終わりが待っているのはわかっている。しかし現代のわれわれは一個ずつやっているうちに、別のやるべきことがやってくるのだ。一個ずつやる繰り返しに、別の一個ずつやる繰り返しが重層していく。音楽で言えばループで組んだシーケンスに別のシーケンスが重なりあって、ポリリズムですらないカオスな曲が、エンドレスで生成されるようなものだろう。それこそが生活の音だといえば聞こえはいいが、不穏な通奏低音が流れる生活など、決して褒められたものではない。
『標的は同人誌』「元組織の男が病む話」(田淵有起也 著)
ここで語られる「手を動かせば終わるから」は、なにもマンガだけの話ではないだろう。私たちの仕事や生活で発生するほとんどは実際のところ、手を動かせば終わる。あとはやるだけというやつである。すべてはいかに、腰の重みを感じる前にやりはじめられるか、なのかもしれない。
ただし腰の重さにもいくつか種類はある。たとえば腰の重みを、やっている最中に感じるか、やるまでの助走に感じるかにも違いがあるだろう。前者はうずたかく積まれた洗濯モノや溜まったメールの山を前に感じる「めんどくせえ」であろう。一方で後者はすこし様相が異なる。アイデアや着想を得てようやく動きはじめるようなモノゴトに対する腰の重さは、やる前の助走の段階に重みがあるのだ。
ただひたすら頭の片隅に抽象的なタスクがあって、その解決の糸口を探すまんじりともしない時間。脳の重さが脊髄を伝って腰に蓄積されるような状態は、手を動かすという段階のずっと前にある億劫さなのかもしれない。マンガでいえば、ネームに入る前のプロセスだろうか。
あのまんじりともしない時間に腰の重みを感じさせない人ことこそ、真の創作者と言えるのではと憧れつつ、私はいつまでたっても腰の重さに縛られ、手を動かせば終わるというステージに至れないでいる。私をステージに押し上げるのはいつも、いよいよ締め切りや納期がヤバい、その脅迫のみなのだ。あーヤバいヤバい。

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