

8月の @SHARP_JP です。SNSでどこか遠くの花火大会の様子を見かけたから、夏祭りの時期だと思った。盆踊りはもう少しあとか。あなたの住む場所でも、いま大なり小なりの夏祭りがやっているのではないか。
私の夏祭りといえば、それはもう祇園祭だ。と書くと、いかにも京都人の鼻持ちならなさが漂うのだろうなと思う。思うだけで、私の心の中にはなんら悪びれる気持ちがないから、そういうところがまさに鼻持ちならないと自分で思う。京都人が京都を語る行為に、いまや客観性と自己批評を要することを京都人はよく理解しつつも、それでもやっぱり小鼻が開くところが、現代の京都人の所以なのかもしれない。
とは言え、私は京都に生まれ育ったといっても、祭の当事者となる地域に暮らしていたわけではない。そのはずれに実家がある。祇園祭のエリアは案外広くて、京都の市街地をけっこうな割合で占めるけど、私はそのエリアから道一本か二本外れた場所、つまり祇園祭のへりで育った。
祇園祭のへりとはいえ、どこへ行っても帰り道は祭の区域を通ることになる。だから私の祇園祭は、お囃子を練習する音が聞こえ出し、鉾が組み立てられる様を横目に、細い道を自転車やバイクで走り抜ける時期を含んだ、とても長い夏祭りだった。もちろんハイライトは、多くの人が出店の中を繰り出す宵山か宵々山である。
出店で埋め尽くされた道という道を、小銭を握りしめながら練り歩いたり、背伸びしながらだれかと歩いたりするのは、たぶんどこの夏祭りと変わらないと思う。馴染みの夏祭りは、いくら大人になっても、行かないでいるとどこか落ち着かない気持ちになるもので、なんだかんだで毎年足を運ぶことになる。私の祇園祭とは、そういう祭りだ。
祇園祭【スサノオくん・令和の長刀鉾】(maronda369 著)
みんな、なんだかんだで足を運ぶ夏祭りがあるのだろう。なんだかんだで行ってもとくになんもないのだけど、行けば記憶の中の昔の自分が満足するのではないか。馴染みの夏祭りがある人は、それだけで夏を得していると思う。
とりわけ祇園祭は行った人の無数の写真がSNSにあふれるから、行かなくていいほどに行った気になれる。その気持ちを振り切って、行く。行って、写真を撮らずに帰る。それでじゅうぶんだと思っている。
このマンガで大活躍するやさしい子どもたちも、きっと祇園祭に行かないと落ち着かない大人になるはずだ。いやそれにしてもしみだれ豚まんをチョイスする小学生、ハイカラすぎないか。

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