

目には歯を、歯には目を、 @SHARP_JP です。「自分の仕事が嫌いな人ってどれくらいいると思う?」と尋ねられたことがあった。書く仕事をテーマにしたトークイベントで待機していた楽屋で、その対談相手からである。とっさに「8割はいるんじゃないかな」と答えて、怪訝な顔をされた。怪訝な顔を見て、私も怪訝な顔になった。8割は言い過ぎだとしても、たのしいと感じながら労働する人なんて、ほとんどいないと体感していたからだ。そもそも仕事はたのしくないものと、私は前提していた。
お互いが怪訝な顔をした原因に、「自分の仕事」をとっさに「自分の会社」だと解釈してしまった私の無意識のせいもある。自分が従事する職業・職種より、自分が勤める会社・組織の方が、より「たのしくなさ」を実感する居場所であるからだ。思えば相手はフリーランスの書き手として、数々の書籍や文章で世と対峙してきた歴戦の勇者だ。同じく自らの思考や技術や度胸で世間を渡り歩く人と仕事をすることが多いから、私の8割に「まさかそんなに多いはずは」とびっくりしたのだと思う。かんたんに言ってしまえば、これは会社員かフリーランスか、のちがいである。しかしそんなことはお互いわかっているので、私は「ここから先は宗教戦争やで」と言って話を濁した。つまりどっちが優れているかの話ではない。
しかし私が話を濁したことは、私なりの心に引っかかっていたのだろう。この前、出社しようと電車に乗った時にハタと思い至った。あれは宗教戦争なんかではなく、単に私たちが得る報酬の根拠を、捧げた時間に置くか、納品した成果に置くかの違いなのだ。フリーランスの人は自分の仕事を通して実現した成果(それは原稿やアイデアや料理や花束を思い浮かべるといい)の納品を引き換えにして、フィーという報酬を得る。
一方で会社員は、労働に費やした時間を引き換えに給料が支払われる。私は私の時間を捧げることで、お金を得ている。自分の時間を等価交換して生きているのだ。しかしそれは翻せば、私は会社員であるせいで、自分の時間を奪われ続ける時間へと変えてしまったとも言える。私は私の時間を交換しようとするかぎり、仕事は私の時間を簒奪する存在であり続ける。だから私は仕事をたのしくないものとして前提し、時間を奪う元締めである会社を諸悪の根源と認識してしまうのだろう。かくして私は冒頭の怪訝な発言をしてしまったのだけれど、仕事を「自分の時間を簒奪する存在」ととらえる人は決して少なくはないと思う。そうでなければSNSに溢れる仕事への呪詛に、説明がつかない。
『あいあいがさをしよう』「第8話〜川上の場合〜」(新川ネリ 著)
だからといって、捧げた時間を交換して対価を得る方法がけしからんと論じたいわけではない。私たちへ公平に与えられた時間というモノを尺度にするしか、公平に仕事を貨幣に変換する方法もないのではないか、とさえ思ったりする。時に会社は私たちの時間を簒奪しすぎたり、低く見積もる性質があるから、くれぐれもその点には注意して、「せめて損はしないように等価交換を狙わねば」くらいの心持ちだろうか。
しかし自分の時間を等価交換する癖に染まると、仕事以外で弊害があるのではないかと心配になる時がある。たとえば、自分の時間と相手の時間を等価にしないと「損した」と感じて仕方ない病だ。それはこのマンガで描かれる、マッチングアプリでの刺々しさによく見て取れる。
“それでおれは「あんたも同じくらい傷ついているといいな」と思う”
このセリフがまさに、自分の時間と相手の時間が等価でないと損に思えて仕方がない病を表しているだろう。
言うまでもなく私の時間とあなたの時間は、その中身を比べられるものではない。比べていいのは時間の長さだけだ。だけどいつしか自分の時間を等価交換することに慣れてしまうと、いつも「できるだけ損したくない」という気持ちが持ち上がってくるのではないか。損をしたくないという目線は案外強力で、私たちの行動をいたるところで縛ってくる。注意しないと、損得勘定だけの感情に染まってしまう。
私の時間は私のものだし、あなたの時間はあなたのものだ。そこに交換はないし、損得もない。そして交換もないし損得もない場所に立つために必要なものこそ、私は愛と呼ばれるものではないかと思うのだけど、それはちょっと気恥ずかしいのでこれ以上は書かない。

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