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シャープさんさんの作品:第270話

桜が散り散り、 @SHARP_JP です。仕事の必要性から、10年前の自分のツイートをあれこれ検索する時間があった。検索して表示される文章は、どれもこれもほとんど覚えていなかった。お前はいままで18万以上のツイートあるいはポストをしてきたぞと、プロフィール欄に表示されているから無理もない。膨大なテキストのうちの、それも10年も前の文字列だから、記憶になかったとしても不思議ではないだろう。

 

10年前のツイートを見た時の既視感のなさは、私がそれを書いた記憶がないせいだけではない。まるで別人が書いたようなテキストに感じられて、さらに既視感がなかった。といってもそれらは私が書いたことに違いはない。自分の書いたものを自分でない者が書いたように見る。既視感のなさは一種の気恥ずかしさをともなうものだった。それは中学校の卒業文集に再会した時の感覚に似ているかもしれない。

 

しかしその気恥ずかしさは、穴があったら自分が入りこみたいような赤面さや、穴があったら文章を埋めてしまいたいような自罰的な気持ちとは少し趣がちがう。ある程度「さもありなん」と思える、後からほんのりと納得が追いかけてくるものだった。若気の至りとか思春期の暗黒といった、自身で制御できない自我が発露しまくった文章とは異なり、昔と今のちがいを人ごとのように見つめることができる文章は、どこか客観性がつきまとう。

 

なぜなら私は、10年かけてゆっくり文体を変化させてきたのだ。言葉選びだとか、文末の締め方だとか、句読点の打ち方だとか、あるいは絵文字の使い方だって、私は読む人に気づかれないほど、意識的に遅く変えてきた。どうしてそんなことをするのかと問われると、仕事上の要請からとしか言えないのだが、伝えるうちに言葉が届く範囲が大きくなるにつれ、伝え方のチューニングは必要だと考えていたのだと思う。

 

つまり私は10年後に「まるで他人が書いたようだ」と思えるようなテキストを進行形で目指している。10年前の文章を見て他人のようだと思えたから、いまのところそれは順調に進行しているのだろう。たぶん私は、写真に映る10年前の私を見て「なんだいまと変わらないじゃないか」とほくそ笑むより、「10年分歳をとったな」とため息つく方が、自分にも世間にも会社にも、誠実なのではないかと考えているのだと思う。

 

ぽんすけ成長日記(ひとり 著)

 

もし10年後に他人が書いたと思えるような文章を目指すことが、漫画家さんが絵柄を変えるということに似ているのだとすれば、私はちょっとうれしく思うにちがいない。意図したことであれ意図しないことであれ、「長く続く」ことを受け入れ、自らが自らを変化させる行為に、私は尊敬の念をおぼえる。

 

ましてやこのマンガのように、我が子を描く場合、その成長にあわせて絵が変わることほど、尊いことはないのではないか。10年後に10年前の自分が映るマンガを見る子どもを想像して描く、親である作者の視点が温かく伝わってくる。こういう変化はだれにもできない、自分だけが起こしえるものだろう。

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